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<今日のコミュニズム論の焦点>とは何か

 朝日新聞社が発行していた月刊誌「論座」は、得がたい雑誌だったと思う。
 いわゆる総合雑誌で朝日的な予定調和的な行儀よさが鼻につかないでもないが、終刊となる前などは赤木智弘なるフリーターを出現させて『丸山真男をひっぱたきたい』という文章で、非正規労働や格差社会への問題提起をおこなったからである。内容的なことよりも「希望は戦争」という刺激的フレーズで物議をかもしていたのがおかしかったが、書いた当人からすれば切迫したことだったにちがいない。

 ところで「論座」最終号(2008年10月号)でおもしろい論文を読んだ。
 『国民国家と資本に代わる「信用システム」をいかに創造するか―今日のコミュニズム論の焦点』白井聡

 白井は若手の研究者で著書に『未完のレーニン』(講談社 2007年)がある。
 彼は現在の修正資本主義的な政治方向性の行き詰まりとコミュニズムの探求のよろこびを挙げて、今コミュニズムを検討する理由を説明する。
 そしてアントニオ・ネグリというイタリアのマルクス主義者の論考を検討する。
 彼によればネグリは「資本によってその上前をはねられている労働の根源的な力を解放することだる」というのが、そのコミュニズムの核心としている。

生産的労働の内容が比較的に単純なルーティン・ワーク中心から、他者とのコミュニケーションや知的協働を中心とするようになるに従って、生産はまるます<共>的なものにある、というのが彼らの見立てである。


 現在は労働のありかたが変容している。かつての大工業、大工場での労働というものがロボットに代わり、「非物質的労働」が優位を占めるようになっている。ポスト工業社会のなかでのコミュニズムの探求は労働を軸にかんがえると親和性があるのかもしれない。

資本による今日的な剰余価値の搾取は「<共>として生産された価値の一部または全体が領有されること」として現れる。言い換えれば、資本は諸主体の社会性を、彼らが<共>に在ることを、直接に価値増殖の源泉とするようになる。



 このあたりの議論は、主にマルクス経済学講座派が好んで主張する「資本主義の根本矛盾は資本の私的所有と生産の社会的矛盾」というフレーズを想起させる。

 さらに現代の資本は「人間の社会性に対して資本は支払う意思があるのかということ」となげかけて、それがないのなら社会性が資本から逃避して、独自の場をもとめる可能性を示唆する。
 このあたりは、どうも抽象的にならざるをえないが、資本が社会を包摂していく限界を語っているのかもしれない。
 
 彼はもうひとりの理論化である柄谷行人をとりあげる。
 柄谷のコミュニズム論の特徴を「資本主義を揚棄しうる契機を生産の局面ではなく、流通・消費の過程に見出している」としている。

 これまでの労働運動がなえコミュニズムを実現することができなかったのか、その理由を柄谷は、「労働者を生産点において主体たらしめることじゃ、基本的に困難」であることに見る。労働者の生産点における(革命的)主体化とは、戦闘的な形ではゼネラル・ストライキや工場占拠といった形を取るが、こうした闘争によって資本主義を打倒することは困難である。
 この困難は、交換(資本と労働力商品の間での)における立場に不等性・非対称性に根ざしている。



 以上の観点から資本の売る立場に対抗する主体としての消費者=労働者大衆の策定する。そしてその根拠となるべく「生産消費協働組合」の運動=アソシェーション(協同組織)の確立をめざすことになる。

 以上の論述からは、宇野経済学の主張する「資本主義の主要矛盾を労働力商品化の無理」の理論を敷衍させていったものがみえる。

 ふたつのコミュニズム論を確認して白井はネグリの論は「<マルチチュード>がすでに<共>性を十全に実現していたとしても」「<共>性から疎外されているというギャップについて対象化する論理を、彼の議論に見出すことができない」と語る。それゆえ、「労働の資本への従属」を突破する鍵を内在的にひきだすことができるとは思わないという。

 また、柄谷の議論については、「流通過程における革命をいかにして開始することができるのか」と疑問をなげかけ、「現状では資本制による生産に担われている部分がアソシェーションによる生産に相当程度置き換えなければならない」「すなわち、コミュニズムを実現するためには流通過程における革命が必要であるが、この革命をはじめるにはすでにコミュニズムがある程度実現されていなければならない」とその困難性を突く。

 ふたつの論考をつうじて白井はコミュニズムの今日的課題に焦点を絞っていく。

 ひとつは互酬の共同体へと戻る方法がある。それがコミュタリアンと呼ばれている共同体主義の内容であるが、これは商品交換原理を強引に否定する傾向があり排他的共同体へと道をひらく可能性がある(ファシズムなど)。

 単なる復古的な共同体ではなく、あらたな次元の共同体の創設を提起するが、それは「人々のさまざまな相互行為・性の容器となる一種の構造であるとすれば、信用とはそれらの行為・生を可能にする『何か』である。それは共同体を支えるものであると同時に、この構造によってしか生み出され得ない」と信用創造をシステムとして成立させる困難性であるという。

 これらの論考を読んで想起するのは「ヤマギシ会」などの擬似コンミューンであり、「労働者協同組合連合会」などの労働者協同組合運動である(ワーカーズ・コーポや大地の会などイデオロギー的な生産者協同組合・消費協同組合のような組織もはいる)。

 すべての団体・組織がそうだと指摘することはできないが、これらのアソシェーション(協同組織)は内部的な問題を抱えていたり、民主的な運営がなされていないことがおおい。また常に市場=交換の場での争いで制約を受けている。資本運動をともなう経済システムのなかでの商品実現活動は結果として物や労働のありかたをゆがめざるを得ない(活動実現のためのただ働き:残業なしの労働)。

 資本の活動や組織内部を逆照射するような外部性をもたないかぎり、どのようなアソショーションを実現しようとも、犠牲を強いるような体制(スターリン的全体性)や資本に随伴する活動に終始せざるを得ないのではないか。

 それと柄谷たちがはじめた運動で「NAM」があり、それに関連もしているのだがLETSという地域通貨に言及していた。
 たとえばイスラム銀行なども参考になるのではないだろうか。イスラムのばあい利子をとってはならないという教えがあり、無利子での融資となるのだが、銀行は金を貸し付けるというよりも金を融通すう機会をつくる場だるとしている。
 これらは資本制経済社会への対抗のヒントになるのではないだろうか。

 
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