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自由主義の逆襲

ソ連崩壊によりこれまでの理念や理論の枠組みが喪失された。フランシズ・フクヤマが「歴史の終わり」だとか、「退屈な時代が始まる」と語ったものだが、9.11のワールド・トレード・センターのテロ攻撃により単純な西欧デモクラシー万歳は通用しなくなった。そこで新たな普遍的・進歩的思想をよりどころにして世界を考え直さなければならなくなった。しかし理論の構築するベースとなるのは従来の理論では通用しない、あらたな枠組みを設定する必要がある。新時代の問題設定で顕著なのはマルクス主義などの歴史的立場にたつ理論が退潮し、変わって登場したのがリバタリアンやコミュタリアンなどのアナーキズム系統の思潮だ。さらに個人をベースとしたリベラリズムの再定義だろう。

なぜ、このようなことを書くかというと井上達夫の『自由論』(岩波書店 2008年)を読んだり、宮台真司『日本の難点』(講談社 2009年)などの出版があり話題になったこと。ロールズやローティなどの哲学者の問題提起が議論されているという状況があるということ。

これについて、思い込みにすぎないと忠告される向きもありかもしれないが、たしかに彼らの議論は「難点や難問をいかに解決するのか」という命題をいかに公正的・論理的に解決するか、という問題設定を追及している面がある。それ自体はある種の究極の選択というべき抽象的なものだのだが、社会のあらゆる局面でも遭遇しうる可能性もあるのだ。

個の自由をあらゆる価値の最上に置く「自由主義」(かなずしも当てはまらないが、原理的にはそこに帰結する)は、なるほど全体主義や強制をともなう同調圧力の村社会などには抵抗の原理として有効かもしれないが、はたしてその原理を導いて、利害調整を達成できる原理として機能するのかどうか疑問がある。

人間が個の利害にもとずいて活動する市民社会は、他者を相互に認めつつ自由主義を前提として、ある意味で結果としての調和と相互利益が求められる。しかし現実には現代社会では普段に競争があり、市場によって優勝劣敗の審判がくだるものなのだ。

人間は相互利益が調整されているときは、民主的手続きや民主政体に同意するだろうが、立場の差や利害が対立してくる場合には、仮に民主政体であってもその結果や決定に納得するだろうか?

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