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民主化幻想―藤原帰一(東大教授)の限界

 萱野稔人は暴力装置としての国家権力にこだわっているようだ。

 昔(06年)にTBSラジオの番組で国際政治学者の藤原帰一(東京大学)が出演していた。

 話としてはイランの核開発について、アメリカが攻撃するどうかなのだが、あまりおもしろくはなかった。

 ただ、気になったのは「アメリカが思い違いをしているのは、民主化すれば機能する、アメリカの都合のいいように動かせると思っていることだ」という話だ。

 その問題では一般論として民主化=善=プラスになると考えているのが、アメリカではなく当の藤原じしんにあるのではないか? ということだ。

 今年の北京オリンピックについて、藤原帰一がそのころの朝日新聞の時評だかで、現中国政権のオリンピックについて支持しない旨書いていた。さらにチャン・イーモウがそのオリンピックの開会式を演出したことに対して失望したとも書いている。 
 
 そもそも中国の現政権じたいを(独裁政権だから)支持しないのか、そのあたりは読み取れないが、リアリストの藤原にしては変なことを書いているなと思う。
 
 民主化・民主主義という政体じたいは国民の普通選挙による政治がおこなわれているかどうかだと思うが、それにたいして過大に評価しすぎではないか? ということがある。
 
 民主化を達成すると、時によりポピュリズムやナショナリズムにより、好戦的な政権が出現する可能性はある。とくに中東やアフリカでイスラム原理主義が伸長しているし、イラクについてもフセイン政権時代はイスラム教が世俗化されていたので、さほど宗教的な縛りはおしつけられなかったが、今のイラクは宗教的な日常的抑圧があるという。

 ジャーナリストの田中宇も中国について似たようなことを書いていた。

 日本を不幸にする中国の民主化
 
中国に限らず、ロシアやイラクなど世界の多民族国家の多くは、リベラルな民主主義をやろうとすると、矛盾する各派の主張に収拾をつけられず、国内が混乱する。



 事実ソビエト崩壊後の旧ソ連を構成していた各民族共和国が独立するなか中央アジアのいくつかの国々では独裁的な政権が成立している。しかしアメリカはそれにはとくに問題視していないようだ(アメリカの軍事基地の関係もあり、そのあたりは昔も今も政治的力学で判断している)。

 アメリカがリベラルな民主主義を称揚していても、ドルを押し付けてくるグローバルな帝国であることは間違いない。お金のうえにたったうすっぺらなリベラル民主主義をいくら宣伝しても、多くの人はそのスタイルでは貧しくなるということを感じているのなら、ファッショ的、民族排外主義的な指導者や意見に巻き込まれてしまうのは当然だろう。
 
 アメリカの戦争(イラクやアフガン戦争)については批判的なようだが、アメリカのような新大陸でお金の論理と帝国主義政策で成立している国じたいの論理を肯定しているようでは、よその国に対する批判もアメリカ的な価値観に対する否定にしか見られない。それが藤原の限界である。

 
 
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テーマ : 世界恒久平和を実現しよう
ジャンル : 政治・経済

国民国家とナショナリズム

 宮台慎司はナショナリズムを称揚しているようだ(天皇についても支持しているようだが)。

 ナショナリズム=国民主義として近代国家の普遍的なありかたとして認識しているようだ。自立した市民社会の個人の意思により憲法が制定されてそれによってなりたつ権力を基盤とした国家を肯定するものとして語っているようだ。

 しかし、それはあまりに理想主義であり、抽象的で、現実的ではないだろう。

 ベネディクト・アンダーソンが「幻想の共同体」とよんだように、後発して世界のなかで独立していった国は、国家形成において先行する帝国の形態を学んだ結果として成立している。

 民族国家=国民国家という形式があたかも所与の前提のように語られるが、コソボ独立をみるようにそう単純ではなくなっている。

 たとえば日本人といったときに沖縄人やアイヌ人などの土着の民族や気化した(たんに日本国籍を取得しただけなのだが)欧米系白人や中国人、韓国人などのアジア人たち、そして在日朝鮮人。
 これらについては想定されているのだろうか?


 バートランド・ラッセルは国民主義について帝国主義と民族自決主義をあげている。帝国主義はかたちとしてナチスのようなファシズムとも合致するようになり、またイギリスでの大英帝国という国民国家意識として定着するようになった。

 大英帝国の帝国意識が労働者階級に浸透するようになったのはミュージック・ホールという労働者の娯楽施設が普及することにより、大衆意識として形成されたとする研究もあるが、他愛ない内容の歌が流行することで意識がつくられたというべきか。ともかくよその国は馬鹿であるといった差別・排外主義というものがみられる。

 帝国における国民主義というものは、結局のところ国力や国益なる「国民国家」という幻想にとらわれているにすぎない。自分がその国家の一員として、限りなく帝国を強化する方向へ向かうしかないだろう。

 日本という帝国での国民主義とはアジアの国々を操作・統括・従属させる発想でしか生まれてこないだろう。それを否定したら国民主義ではなく「アジア主義」(別に戦前の大陸浪人や右翼の考えではないが)として定立させることになるだろう。

 ナショナリズム=国民主義として考える時代なのだろうか。それはおおいなる錯覚であり、国家は既に引き裂かれているのである。

テーマ : 憂国
ジャンル : 政治・経済

グローバル資本主義にとって国民国家が必要不可欠

資本の帝国』(エレン・メイクシンズ・ウッド著 中山元訳 紀伊国屋書店 2007年)を後ろのほうだけ読む。

 グローバル資本主義にとって国民国家が必要不可欠であると喝破する。

 「国家は、資本にとってほんとうの意味で不可欠な唯一の経済外的な制度だといっても過言ではない」



 もともと資本主義は国家的な庇護がないと発展しないのはあきらかである。
 イギリスの重商主義的段階もそうだし、常に国家がむすびついている。

 マルクスの資本主義分析も一国内の検討であり、それが外国との貿易により発展していったことの分析である。

 日本も明治期の日本は国家的事業としての資本主義国家形成であったし、世界にむけての離陸期間でもあったのだ。

 著者は国家が衰退しているように見えているが、実は社会的な福祉こそが資本主義国の経済的成功と社会的安定性を維持する基本的条件である、と語る。

 半分当たって、半分間違っているような気がする。「帝国」自体が変質しているが、ヨーロッパとアメリカが違うように、当てはまるものとそうでないものがある。

テーマ : 新自由主義
ジャンル : 政治・経済

新自由主義グローバリゼーションは資本制社会のあらたな段階か!?

半資本主義VS反資本主義
 新自由主義グローバリゼーションは資本制社会のあらたな段階か!?

 高橋洋児の『「マルクスを活用する』(彩流社 2008年)を読んだが、高橋によればマルクスは「資本論」のなかで資本主義という言葉はひとつしかでてこない、あとは資本制生産あるいは資本家的生産様式という用語だという。

 これはどういうことなのだろう。思うに重商主義や自由主義というような、経済政策などの基盤になる思想とは別だからではないか。

 近代資本主義じたいは自由主義の価値観をそのまま胚胎して成長していったと思う。市場経済をつうじて社会発展をおこない。私的占有と自由な競争の重視。思想としては個人の自由の尊重、法の尊重、権力の分立と議会制度の確立などを求めていった。

 やがて商品生産社会が資本に基づく資本生産社会<商品の二要因(交換価値・使用価値):貨幣の必然性>へと発展していく。

 高橋洋児の本には過度に昨今の反グローバリゼーション・反新自由主義者への反駁の色合いが強い。資本のもつ文明化作用というものをマルクスが評価していたということをしきりに強調して、それを肯定しているようだ。
 
 それはいいのだが、文明化作用といっても、プラスの側面を評価しているにすぎない。結果犠牲をともない、それに抵抗や被害を蒙る人たちもいるわけで、そのあたりは是々非々ということでしかないわけだが、そのあたりについては記述がない。

 その点で『まんが 反新自由主義入門』エセキエル・アダモフスキ文、イラストレータ連合絵、伊香祝子訳(明石書店 2007.11)は明確に反資本主義の本である。

 アルゼンチンの研究者が書いたものだが、今の運動のあり方を理解できる本だ。ただ著者はネグリなどの影響を受けており、マルクス主義とアナキズムの折衷のような気がする。

 まあ、いいとこ取りをすれば、そうなるしかないのだが、資本制経済が経済原則として有効であるという点から考えれば、反資本主義ではなく半資本主義として目標設定を変更しなければならないかもしれない。
 もともと資本主義がイギリスをモデルにしてきたが、国ごとに変容をとげて政治による規制や政策をとおしての修正がおこなわれるようになってきた。その意味で資本主義は修正資本主義なのである。
 アメリカでは今でこそ市場万能主義の見方が主流だが、それ以前はケインズ主義で政府・国家が市場経済に介入していたわけで、新自由主義の破綻をうけて、オバマ政権は舵取りを変えてくるだろう。しかし右顧左眄ということになる可能性もあるが。

テーマ : 新自由主義
ジャンル : 政治・経済

資本主義のいくつかのモデル

資本主義のいくつかのモデル
 新自由主義のついての弊害がいろいろ叫ばれているにも関わらず、それを放棄しようとか、政策を転換しようという、動きは先進国ではまだ弱い(昨年の選挙で民主党が勝ったのは、その動きだろうが、民主党が明確に新自由主義を廃棄して、転換したかは疑問だ。しかし注目していく必要はある)。

 G8の洞爺湖サミットについても日本国内での反対運動や批判は強いとはいえない。
 
 話としては資本主義のあれこれのモデルとして、

新自由主義(アメリカ・イギリス型)的資本主義=市場システムに優位性を置き、自由な資本活動を進める

社会・調和(ドイツ・フランス・北欧型)的資本主義=国内・社会の調整・調和を優先し、市場や資本活動に対して一定の規制をおこなう

 これによると日本は下に当てはまるということらしい。

 日本共産党の唱えているルールある経済社会もそれに相当するのだろうか?

テーマ : 新自由主義
ジャンル : 政治・経済

「帝国」や「グローバリゼーション」「資本主義」といったキーワードで本を拾い読み

「帝国」とグローバリゼーション

 今開催されている洞爺湖のG8サミットに対して、ものすごい厳戒体制が敷かれている。

 東京都内でも始まる数日前から、地下鉄構内に警官が目をひからせている。ここまでしないといけないのか、このようなエネルギーを傾注する必要があるのか疑問だが、「テロ対策」の言葉の前には、いっさいが不問に付されてしまうようだ。

 まさに「テロ」を利用した国家の総動員テロなのだが…。
 
 実現しなかったネグり来日とG8サミットに絡んで、というわけではないが、「帝国」や「グローバリゼーション」「資本主義」といったキーワードで本を拾い読みしている。

 精読する、といいたいところだが、読み通すのに難儀なものもあり、すべて通読する義理もないので適当に読んでいる。

 伊藤誠の『幻滅の資本主義』(大月書店)現在の資本主義国家と社会のありかたの問題点をわかりやすく、つぼを押さえたもので、読みやすい平易な文章で、すごいことを提起していたりする。「同一価値労働同一賃金」の提唱についても、単純に提起するとむしろ差別賃金を肯定することになり、ていねいな説明が必要との問いかけをしている。

 労働には同一の価値形成のありかたが備わっているわけで、その価値形成の過程の解明や確定が需要だとしている。

 ほかにもジェンダーと労働の問題や価値論論争の話など、多彩で内容の濃い本でさすが宇野経済学の俊才といわれた面目躍如という気がする。

 本山義彦編の『「帝国」と破綻国家』(ナカニシヤ出版 2005年)は副題に<アメリカの「自由」とグローバル化の闇>とあるように、具体的にアメリカ帝国主義とグローバリゼーションが推し進めた結果としての軍事紛争や破綻国家という事実を丹念に検証している。

 的場昭弘の『マルクスを再読する―<帝国>とどう闘うか』(五月書房 2004年)については広義のマルクス主義を再検討するというもので、そのための媒介としてハート・ネグりの「帝国」概念を援用している。そして、それに関係するものとしてスピノザを評価して、それを軸にしている。またアルチュセールについての評価も一定肯定している。

 ここではマルクスの再構成をおこなっているが、このあいだ読んだ高橋洋児の『マルクスを活用する』(彩流社 2008年)と対立する論点もあるので議論すると面白いと思う。

 的場氏はややネグりの思考に引きずられているような気もするが、原理的な議論は重要だろう。

 『帝国論』山下範久編(講談社 2006年)具体的な国内部での帝国(現代的な意味での)のあり方を考察したものと、歴史概念としての帝国主義と帝国形成のシステムを検討したものなどあり、抽象的なものと具体的なものとの距離感がわかりにくい、というかなじめなかった。

 『グローバリズムの「失敗」に学ぶ15の原則』M.ゾレス他(アスペクト 2005年)はグローバリゼーションによる市場開放の成果を素朴に感じている人々への警告の書かもしれない。というのはアメリカの経済学者が政治や政策に関与することによって混乱が増すこと(直接でなないにせよ)を指摘し、具体的に地域や国ごとに危機にありようを解説している。経済学者の竹中平蔵が大臣になって規制緩和をすすめたことが、勝ち組・負け組みの格差社会を加速化した、と感じている今の日本ではよく理解できるのではないだろうか。

テーマ : 新自由主義
ジャンル : 政治・経済

<今日のコミュニズム論の焦点>とは何か

 朝日新聞社が発行していた月刊誌「論座」は、得がたい雑誌だったと思う。
 いわゆる総合雑誌で朝日的な予定調和的な行儀よさが鼻につかないでもないが、終刊となる前などは赤木智弘なるフリーターを出現させて『丸山真男をひっぱたきたい』という文章で、非正規労働や格差社会への問題提起をおこなったからである。内容的なことよりも「希望は戦争」という刺激的フレーズで物議をかもしていたのがおかしかったが、書いた当人からすれば切迫したことだったにちがいない。

 ところで「論座」最終号(2008年10月号)でおもしろい論文を読んだ。
 『国民国家と資本に代わる「信用システム」をいかに創造するか―今日のコミュニズム論の焦点』白井聡

 白井は若手の研究者で著書に『未完のレーニン』(講談社 2007年)がある。
 彼は現在の修正資本主義的な政治方向性の行き詰まりとコミュニズムの探求のよろこびを挙げて、今コミュニズムを検討する理由を説明する。
 そしてアントニオ・ネグリというイタリアのマルクス主義者の論考を検討する。
 彼によればネグリは「資本によってその上前をはねられている労働の根源的な力を解放することだる」というのが、そのコミュニズムの核心としている。

生産的労働の内容が比較的に単純なルーティン・ワーク中心から、他者とのコミュニケーションや知的協働を中心とするようになるに従って、生産はまるます<共>的なものにある、というのが彼らの見立てである。


 現在は労働のありかたが変容している。かつての大工業、大工場での労働というものがロボットに代わり、「非物質的労働」が優位を占めるようになっている。ポスト工業社会のなかでのコミュニズムの探求は労働を軸にかんがえると親和性があるのかもしれない。

資本による今日的な剰余価値の搾取は「<共>として生産された価値の一部または全体が領有されること」として現れる。言い換えれば、資本は諸主体の社会性を、彼らが<共>に在ることを、直接に価値増殖の源泉とするようになる。



 このあたりの議論は、主にマルクス経済学講座派が好んで主張する「資本主義の根本矛盾は資本の私的所有と生産の社会的矛盾」というフレーズを想起させる。

 さらに現代の資本は「人間の社会性に対して資本は支払う意思があるのかということ」となげかけて、それがないのなら社会性が資本から逃避して、独自の場をもとめる可能性を示唆する。
 このあたりは、どうも抽象的にならざるをえないが、資本が社会を包摂していく限界を語っているのかもしれない。
 
 彼はもうひとりの理論化である柄谷行人をとりあげる。
 柄谷のコミュニズム論の特徴を「資本主義を揚棄しうる契機を生産の局面ではなく、流通・消費の過程に見出している」としている。

 これまでの労働運動がなえコミュニズムを実現することができなかったのか、その理由を柄谷は、「労働者を生産点において主体たらしめることじゃ、基本的に困難」であることに見る。労働者の生産点における(革命的)主体化とは、戦闘的な形ではゼネラル・ストライキや工場占拠といった形を取るが、こうした闘争によって資本主義を打倒することは困難である。
 この困難は、交換(資本と労働力商品の間での)における立場に不等性・非対称性に根ざしている。



 以上の観点から資本の売る立場に対抗する主体としての消費者=労働者大衆の策定する。そしてその根拠となるべく「生産消費協働組合」の運動=アソシェーション(協同組織)の確立をめざすことになる。

 以上の論述からは、宇野経済学の主張する「資本主義の主要矛盾を労働力商品化の無理」の理論を敷衍させていったものがみえる。

 ふたつのコミュニズム論を確認して白井はネグリの論は「<マルチチュード>がすでに<共>性を十全に実現していたとしても」「<共>性から疎外されているというギャップについて対象化する論理を、彼の議論に見出すことができない」と語る。それゆえ、「労働の資本への従属」を突破する鍵を内在的にひきだすことができるとは思わないという。

 また、柄谷の議論については、「流通過程における革命をいかにして開始することができるのか」と疑問をなげかけ、「現状では資本制による生産に担われている部分がアソシェーションによる生産に相当程度置き換えなければならない」「すなわち、コミュニズムを実現するためには流通過程における革命が必要であるが、この革命をはじめるにはすでにコミュニズムがある程度実現されていなければならない」とその困難性を突く。

 ふたつの論考をつうじて白井はコミュニズムの今日的課題に焦点を絞っていく。

 ひとつは互酬の共同体へと戻る方法がある。それがコミュタリアンと呼ばれている共同体主義の内容であるが、これは商品交換原理を強引に否定する傾向があり排他的共同体へと道をひらく可能性がある(ファシズムなど)。

 単なる復古的な共同体ではなく、あらたな次元の共同体の創設を提起するが、それは「人々のさまざまな相互行為・性の容器となる一種の構造であるとすれば、信用とはそれらの行為・生を可能にする『何か』である。それは共同体を支えるものであると同時に、この構造によってしか生み出され得ない」と信用創造をシステムとして成立させる困難性であるという。

 これらの論考を読んで想起するのは「ヤマギシ会」などの擬似コンミューンであり、「労働者協同組合連合会」などの労働者協同組合運動である(ワーカーズ・コーポや大地の会などイデオロギー的な生産者協同組合・消費協同組合のような組織もはいる)。

 すべての団体・組織がそうだと指摘することはできないが、これらのアソシェーション(協同組織)は内部的な問題を抱えていたり、民主的な運営がなされていないことがおおい。また常に市場=交換の場での争いで制約を受けている。資本運動をともなう経済システムのなかでの商品実現活動は結果として物や労働のありかたをゆがめざるを得ない(活動実現のためのただ働き:残業なしの労働)。

 資本の活動や組織内部を逆照射するような外部性をもたないかぎり、どのようなアソショーションを実現しようとも、犠牲を強いるような体制(スターリン的全体性)や資本に随伴する活動に終始せざるを得ないのではないか。

 それと柄谷たちがはじめた運動で「NAM」があり、それに関連もしているのだがLETSという地域通貨に言及していた。
 たとえばイスラム銀行なども参考になるのではないだろうか。イスラムのばあい利子をとってはならないという教えがあり、無利子での融資となるのだが、銀行は金を貸し付けるというよりも金を融通すう機会をつくる場だるとしている。
 これらは資本制経済社会への対抗のヒントになるのではないだろうか。

 

テーマ : サヨク・在日・プロ市民
ジャンル : 政治・経済

資本=ネーション=国家について

 柄谷行人が「資本=ネーション=国家」というトリニティによって現代世界が構成されていると語っている。
 その場合の資本とネーション(民族)はわかるが国家というのは同列に扱えるものなのか疑問だ。
 仮にその三角の統合というかトリアーデ体系が同じ比重ではないだろう。

 国家は資本にもネーションにもかかわるが、ネーションと資本のかかわりは薄いだろう。
 「民族資本」といういいかたもあるが、あくまで資本の運動としての表出ではないか。

テーマ : サヨク・在日・プロ市民
ジャンル : 政治・経済

連合・高木会長のインタビューが

 最近は日曜の朝日新聞を購入することにしている。日曜版がついてくるからだ。そこで連載されている「奇想遺産」(たいして奇想でもないのが不満だが…)とテレビ番組欄が一週間ぶんついてくるからだ。
 ふだん新聞をとってないのにテレビ視聴の予定をたてなければならないからだ。テレビの深夜映画などを録画・視聴するためである。

 14日の一面に連合・高木会長のインタビューが一部記事になっている。
 ネットに全部掲載されているというのでみてみた。
 
たいして中身はない。短いし。

アサヒコム/高木会長インタビュー

 
――派遣法などの規制緩和を許し、不安定雇用を増やした責任は連合にもあるのでは?

 規制緩和を止められなかったという批判は受けざるを得ない。不安定雇用の人を最小限に抑えねばならないという雇用の原則を、強く主張し続けられなかったことについては、ざんげしたい。ただ、製造業派遣を認めて派遣労働が急激に広がったころから、派遣法は「希代の悪法」になりかねないと、法改正を主張してきた。ようやくそれが実を結ぼうという矢先に、雇用危機が来てしまった



 ここには派遣法じたいを違法である、とする認識はない。
 もともと派遣法は特別な職種でなければ認められなかったものだ。それが企業・産業界の要請に応じて政府がズルズルと認めてしまって、どんどんと派遣労働が増えていったのである。
 それを元にもどせ、という気はないのだろうか?


――労使協調路線の浸透で本当の意味で闘えるのでしょうか。

 今は経営側に「色々言っているが、突っぱねていれば息切れして妥結する」と高をくくられている。正社員がそこまで追い込まれていないのか、論理的にも経営側に飼いならされたのか。嫌がることもやらないのに組合の主張をのませることはできない。

――経営側への「拮抗(きっこう)力」を取り戻すには。

 要は会社が嫌がることをできるかどうかということ。例えば忙しい時、納期が迫っている時に残業を拒否したら会社には効く



 残業拒否することは業務命令違反として、評価が下がるだろうし、会社の嫌がることをしたら会社から当人が嫌がることをされるだろう。
 そこは団結した労働組合として動かなければイジメにあうだけである。
 
 組合としては残業拒否ではなくストライキだろう。
 なぜ、そのようにストレートにものをいえないのだろうか?

 

テーマ : 労働問題
ジャンル : 政治・経済

日教組と「教育塔」

 「教育塔」なるものが存在して日教組が管理しているようなことは前から知っていた。

 戦前からあるものということで、なにやらうさんくさいものだと感じていたが、いちおう戦後の日教組が管理しているんだから、おもてむきは民主的な体裁をとっているのだと思っていたが、このブログで驚いた。
 
情報流通促進計画 by ヤメ記者弁護士(ヤメ蚊)/教育塔って知っていましたか?~日教組が「教育勅語」賛美?
 
 これを問題視する団体から、公開質問状が発せられている。

1、教育塔の「教育勅語奉読」のレリーフを撤去すること。
2、教育祭を「教育勅語」発布の日(10月30日)に行うのをやめること。
3、戦前の教育塔・教育祭のあり方を反省する説明板を設置すること。



 これまで問題になってこなかったということが、不思議だ。

教育塔(日本教職員組合) http://www.kyouikutou-jtu.jp/index.html



 右翼のみなさん、貴方達は勘違いしてますよ。
 日教組は戦前の教育を評価する組織です。むしろ賞賛すべきです。

テーマ : 教育
ジャンル : 学校・教育

共産党・志位委員長のうしろむき発言

 12月14日の朝の番組をみていたら田原総一郎の「サンデープロジェクト」に共産党の志位委員長が出演していた。
 時間がなかったので、すこししか見られなかったが、赤旗サイトで内容が掲載されているのでみてみよう。

大企業の大量解雇撤回へ政府が責任をもって乗り出せ

テレビ朝日系番組 志位委員長の発言


 志位 そうですね。全体の流れとしては、(「しんぶん赤旗」読者は)一九八〇年ぐらいをピークにして残念ながら減らしてきたんですよ。ようやく、それが、「赤旗」の読者が増え始めた。(増勢への)離陸が始まったと。

 田原 離陸がね。

 志位 それから入党のほうは、このところ十三カ月ほど連続的に前進して、新規に入られた方が一万三千人というのは、これまでにない、また変化が起こっていると(思います)。

 田原 なんでいま、マルクス、あるいは共産党がブームになっているんですか。

 志位 一つは、「働く貧困層」の問題の解決に、私たちが取り組んできたことが共感を広げているということがありますね。

 ただ同時に、日本の国のあり方として、こんなにルールのない資本主義でいいのかと。暮らしを守るルール、これが雇用でも、社会保障でも、中小企業でもない。この「ルールなき資本主義」を「ルールのある経済社会」に変えようじゃないかという、この主張も共感を広げていると思います。


 まず指摘しておきたいのは、この現象は小泉元首相などを筆頭とする政府の新自由主義政策により、労働者、とりわけ非正規労働者、低賃金労働者へ犠牲を強いてきたものであり、痛みにたえかねての反応であるということ。
 「働く貧困層」の問題解決にとりくんできたとしても、結果として成果があがっているとはいいがたいこと。
 であるならば今年ブームを起こした小説の『蟹工船』(小林多喜二の)によって、若者たちが、せっかく期待して共産党に加入しても、現代の貧困が解決される糸口や契機がみつけられなければ、すぐに雲散霧消してしまう可能性もあるということだ。
 そして、なによりもこの貧困状況を現出させてしまったことの反省が必要ではないか? 戦時中の戦争への抵抗運動は、権力の過酷な弾圧により実を結ばなかった。それにより日本帝国主義はアジアにおいて侵略をすすめてしまった。
 それに関しては共産党にも責任を負わせる議論があるが(丸山真男)、それには与しない。

 しかし、現代の新自由主義政策とその進展については、たとえ野党といえど、自由な政治活動が保障されている以上は、このような労働者、労働組合への犠牲の転化という事態を許してしまったこと、 このような政策に対する社会的抵抗、反対運動を提起し指導しえなかったことに対して痛苦な反省が必要だろう。

 さらに

「ルールなき資本主義」を「ルールのある経済社会」に変えようじゃないかという、この主張も共感を広げていると思います。


という表現についても注意すべきだろう。
 
 まず「ルールなき資本主義」という用語は、正確か?
 後段のほうでは違法な首切りについて語っているが、「違法」といわざわざいっているように、「ルール」を無視しているだけなのである。
 不十分ではあるが、現代日本は労働契約法や労働基準法があり、簡単に首切りなどできない規制があるので、ルールなきといはいえないのである。問題は経営方針がそのような方法をとってしまうことにある。つまり経済原則、あるいは経済システムのなかで利潤率、利益が下がると、労働力の調整によって合理化をして、利益を得ようとするありかたである。
 これは資本主義(資本化的経済システム)としては、通常のありかたであり、これもひとつのルールと考えられなくもない。
 また市場があるので、ものをつくっても売れなければ利益はでない。「消費不況」といわれるゆえんだ。さらに「神の見えざる手」によってすぐれたものが勝つという「優勝劣敗」という弱肉強食のルールというか法則が貫徹していく、正確にはルールとはいえないがその原則が貫かれているということの認識はあるだろう。

 そうすると「ルールなき資本主義」については、「ルールはあるんだ!」と半畳のひとつもいれたくなるではないか。また、もともと資本のシステムはそういうものであり、それに対応した方策なり規制がかけらえていた社会がある、ということだったのだ。
 
 「ルールある経済社会」については明確にはいっていないのではないか、という問題もある。
 たとえば、番組でフロントというかコメンテイターが発言していたが、

 もうちょっとこちらから、おうかがいしたいんですが、会社というのは別にイデオロギーで経営しているわけじゃないので、もしそれがいいと思えばリストラも撤回すると思うんですね。いまの感じでいきますと資本市場の復活が当分ありえないと思うんですね。そうすると、いままで続いてきた、資本効率を上げる経営というのに、見直さなきゃいけないだろう。

 そうするとその先に何があるかというと、多分、日本的経営への回帰みたいなことがこれから起きてくるだろうと思うんですね。そうなった場合に果たして、日本共産党としては評価されるのか、やっぱりそんなのはよくないと(いうことになるのか)。



 この問いに対しては、直接に答えることなく、ともかく雇用を守れ、それが企業としてもよくなる、という不思議な論理をかざしている。

ですからここでは、雇用を守る責任を企業に果たさせることをきちんとやってこそ、景気もよくなっていくし、企業にとっても先行きが出てくるということを、私はいいたいですね。


 
 これまでの日本的経営というのは、グローバリゼーションとは切り離された「内需指向」であり、終身雇用制・年齢給による平準化で労働者には企業一家、企業意識というものを形成する要因ともなっていた。
 そこには労働者の社会的な囲い込みの側面もあり(いわゆる社畜)、内(企業内位階制)にむかっては心地よいだろうが、外(下請け)についてはシビアな対応となる。
 むしろ経済社会のなかでの会社・企業に従属する人間というものを見出すであろう。

 経営レベルでは、それなりに評価できるものもあるだろうが、革命政党の代表・委員長がこれまでの「日本的経営」の問題点と社会のありかたを提起できないようでは、あまりにうしろむきであり、「ルールある経済社会」がお題目にすぎないということが、はしなくも暴露されているのではないか。
 

 

テーマ : 日本共産党
ジャンル : 政治・経済

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